俺は「パシナ」の機関士だ ◆小倉正明さんとの出会い。  出会いのきっかけは『パシナ』の読者であった信州の渡辺映子さんから届いたお手紙だった。その中には朝日新聞の切り抜きが同封されていた。そのことを1985年春発行の『パシナU』25pにこう書いた。  ひとつ不思議な出来事があった。「あるはなく」の題名を決めるきっかけのハガキを下さった信州の渡辺映子さんより新聞の切り抜きが同封されているお手紙を頂いた。その朝日新聞記事(木曽福島駐在、平田英之助)は、新国技館に、樹齢五三〇年の天然木曽ヒノキの株元(根の部分)で作った「ついたて」を寄贈するというものだった。その契機となった片男波親方(玉の海)と木曽郡上松町の小倉正明さんとの親交が書かれてあった。 満州で二人は陸軍の同年兵であったが、終戦間際、脱走し、豆腐屋を共同経営していたが、すさんだ生活をやったため中国官憲に捕まり、死刑寸前になった所を、木曽節を歌ったことで八木秋子に救い出された、という。  詳しいことはわからない。  記事の中に「八木秋子」の名前が出てきたのには驚いた。そこで新聞に書かれてあった「上松町駅前」を頼りに小倉さんあてに手紙を出した。しかし返事がなかった。そして、数年経ったある日、小倉さんから「会いたい、来てくれないか」との電話が来た、そこで訪ねて話をうかがった際に録音したテープが今回まとめたものである。 1988年、5月28日。木曽上松町の小倉正明さんを訪ねたのは、このインタビューをまとめ始めた昨年から数えると25年前になる。 25年ものあいだ気にかけ続けていたものをようやくまとめた安堵感があるが、しかしせっかくのお話を長い間まとめなかったという申し訳ない気持でいっぱいでもある。  1988年という年は、私にとって大きな出来事が続いた年であった。3月には敬愛していた川柳作家の児玉はるさんがなくなり、小倉さんを訪ねて帰って来たその日には友人の真辺致一さんと暮らしていた筧わか子さんが重篤との連絡が来て、なくなるまで病床につきそい、見送った。9月には15年勤めていた会社の白井新平社長がなくなった。その葬儀などをすませた後、今度は私自身が会社を退社せざるを得ない状況に追い込まれ、11月には職を失ったのである。  せっかくのインタビューは文字にならないまま現在に至ってしまった。小倉さんも翌1989年夏に脳血栓で倒れ、その後音信は不通となった。  小倉さんのお話は、八木秋子の死後、冊子『パシナ』に拠っていた私にとって驚くべき内容だった。満州で八木秋子に命を助けられたということも半信半疑だったが、その上、「俺はパシナの機関士だった」というのである。また、私もファンだった「玄海の荒法師こと玉乃海」とは「生涯助け合う兄弟と誓い合った仲」だというのにも縁を感じた。 1945年の夏、8月14日。小倉さんと八木秋子が満州奉天の満鉄独身寮で一瞬交叉したことは間違いないだろう。 その一瞬の出来事が小倉さんの一生を決めた。奉天で八木秋子に助けられたということとその後の八路軍との体験によって、共産党の上松町議を24年間務めることにつながったと小倉さんは言う。  今回、まとめ始めて気がついたことがいくつかある。小倉さんが私に電話連絡をしようと思った大きな理由は、その前年の、1987年9月に急死した戦友玉乃海(三浦朝弘)(享年64)の死によるということだった。小倉さんも64歳になり、なんとか自分のことをまとめたい、自分の歴史を遺したい、特に「八木秋子とパシナ」で結ばれた奇縁を話したいということだった。そして、私も今は64歳である、ハッと思って八木秋子日記を見た。1960年3月17日には次のように書いている。「より深い彫刻家の先生を私は恐れる。こわい。どうしても近づき得る勇気がない。私の64歳という年齢、私の醜いしわだらけの老人の顔、白髪に覆われた頭髪、そして醜い手足。」。そうだったのだ、彫刻家高田博厚に身を投げ出そうとした時の八木秋子は64歳だった。  八木秋子がなくなって昨年はちょうど30年だった。10年毎に縁のある方に連絡して集まりを持っていたが、昨年は行わなかった。その代わり小倉さんのテープをまとめようと思い立ち、導かれるようにしてここまで来た。それには録音テープの文字起こしから形に整えてくださった中島雅一さんのお陰である。また八木秋子との出会いから著作集の出版までずっと協力してくれた友人の石井誠さんには今回もお世話になった。それから新しい読者の励ましもある。  しかし、なによりも農村青年社の同志、南澤袈裟松さんのご遺志によってこの冊子が制作されたことをご報告し、南澤さんに心から感謝したい。なお、八木秋子との会話や集まりのテープをデジタル化するに際しても、南澤さんのご芳志に預かったこともご報告したい。ありがとうございました。  最後に、小倉さんは『たにまちの風』という著書を出されていることも今回初めて知った。八木が死んで10年後の1993年8月20日発行である。このインタビューと合わせてお読みいただければ小倉さんの人柄、その生涯を知ることができると思う。私の聞いたことと異なる箇所もあるが、インタビューの内容はそのまま記述することにした。小倉さん、ようやくできました。いただいたパシナの写真を載せました。お元気でしょうか。 1 八木秋子との一瞬の出逢い ◆八月六日、鉄道隊から逃亡 ── 最初に肝心なところを伺いたいんですけれども、八木秋子さんと会ったのは、具体的に何日頃だったか、お分かりになります? 小倉 わからねえなあ……。 ──八月の一二日ごろですか? 小倉 ええ。 ──一二日、一三日あたりに新京から八木さんは動いてくるわけです。 小倉 列車の中にいたかもしらんね。その列車そのものは、満鉄の職員だけが乗れるんですよ。 ──そうです、そうです。 小倉 どうもおかしい、様子が変だと思ったのは、吉林ですよ。佳木斯(ジャムス)からどんどん人が南下して来る──私は鉄道隊機関員、機関士だからね、次から次へと人を運びながら来た。  兵隊の連中は、吉林まで逃げてくるまで、その間に相手と撃ち合ってきてる。どこをどうきたかはわからんけど、兵隊さんを乗せろと。増結増結で行って、まだ後が来ると言うから、ずーっと南下したの、どんどん、と。とにかく南へ行け、南へと。それで途中、吉林に着いたらその機関車を離せって言われて切り離した。軍隊はそのまま吉林へ集結して蜂起しよう……。でも中には、もう負けたっていう人、武器を置いてこいって言う人もいる。  軍人がね、自分の銃や剣、そんなものを置いてくるっちゅうから、これはただごとではないと思ったんですよ。そしたらみんな丸腰で、どんどん捨てるんじゃないですかね。どうもおかしいぞ。おい、あぶねえぞ、逃げろ、って。  私ら鉄道隊っていうのはね、機関員は、エンジ色の「EG」っていう公用腕章をつけていたんですよ。 ──EGっていうのは、アルファベットのEGですね? 小倉 ええ。それが公用腕章で、どこへでも、鉄道の上ならどこでも行ける。そういう権限があったんですよ。このままだと身投げだ、自殺だ、と……それをあわててとっちゃって。満鉄の服着てても、一枚脱げば軍服だでね。だから、襟章だけとっちまえと。みんなとっちゃって、満鉄の服に替えて吉林の機関区へ飛び込んだ。 ──みんなっていうのは何人ぐらいですか。 小倉 そうだねえ、私らは鉄道隊だから一個小隊六〇人。 ──六〇人。 小倉 それで機関区に行って、菜っ葉服になって、「キンシカ」だったかな……「ハクシカ」か「キンシカ」の酒で六〇本と、それから、満鉄の霜降りのね、作業服と帽子、そいつを六〇とるんですよ。 ──それは小倉さんが要するに機転をきかして、それを替えて配った。 小倉 そのねえ、気が利くとかそんなことじゃなくて、偶然そうなっちゃったんだよ。わしら菜っ葉服でね。 ──それを着れば、要するに変わらんわけですか。 小倉 うん、変わらん。菜っ葉服は鉄道の、鉄道員とそっくりだよね。  鉄道隊っていうのは、鉄道の敷設やら、架橋、橋梁をかけたりね、爆破もやったり、そういうことが専門。そのうち機関員、運転手は、五人か六人しかいないですよ。  私はその小隊長で、南下して来る兵隊がおるし、開拓団の人たちもおるし、もう酷い目にあって荒涼としてた。本当かうそか、わしらも推測できない。これじゃあもう、よし、逃げろって。  そうしたらね、ずっと南下するって言う。どこまでだって言ったら、どこまでだかわからん……それで、そのままずーっと南下してきたんですよ。それが吉林に来たらストップ。 ◆銃撃、暴動の中を、ひたすら南へ 小倉 吉林の駅の向こうにもね、満軍がおったですよ。満州軍が。それはポンポンとこっち向けて鉄砲撃ってくるんだから。もう、確かに危ない。ほんでかたまれ、っちゅうわけでかたまる。  そうしたところね、二つばかり駅行ったら、もうボンボンボンボンと撃ってくるんですよ。 ──誰が? 何が? 小倉 誰が撃つかはわからんでさ。満州軍も反乱するけれども、一般の普通の人たちも、昔の自由兵みたいなものも、全部反乱、暴動でバンバン撃ってくるんですよ。 ──機関車に向かって撃ってるわけ? 小倉 ああそうです。どんどんどんどん南下してきて、途中、奉天の手前で、これはまずいぞ。もうこれ以上進んでいくとやられる、と思って。そこにマーチョが…… ──何ですか? 小倉 マーチョってやつだね。いわば、馬車だな。二つ車で、その場で、マーチョ、マーチョって、頼んで。  それから夜ねえ、走った走った。馬車で走るってまあ、今みたいなアスファルトの道じゃない、泥の道でね。見たら、大勢日本人がどんどんどんどん逃げて行く。暗いしねえ……。  ふっと見たら城壁があるんですよ。どこだろう? って。あの門をくぐらなきゃだめだ。とにかく撃たれるし。 ──それはもう、汽車を放棄したっていうことですか? 小倉 ああそうだ。汽車置いてきた。逃亡だから。 ──そうすると、汽車に乗って来た人たちはどういう人たちなんですか? それを最初に聞きたかったんだけど(笑)。 小倉 軍用列車だったもんだけどね。もういい、もういいよってわけで、みんな乗れるだけ乗れ。おれも乗せろってやつ、元気なやつがおれば、そうか、って。 ──わかってきました、だんだん。 小倉 ね、誰でも乗れっちゅうわけだよ。それで南下したんですよ。何が何やらわからんうちに、よし行けって。で、バリバリ撃ってくるわけだ。これはだめかなと思って……。  満州の夏の夕方っていうものはね、実際には一〇時にならなきゃ日が沈まねえ。そこでもう、果てしなく続いたんですよ、逃げる列は。  吉林の方からずっと下ってって、奉天の城門があったけど、それが北なのか南なのか、そんなんも知らないや。  ただ、ただ、無我夢中で逃げ込んで行って、ちょうど城門を入ったとたんに「満州工作」っていう大きな工場があって、その中に逃げこんだ。  弾が、空中にびゅーっと……中には撃たれて死んだ人もおったかも知らん。城門に入ってみたら工場がある。あれに逃げ込もうってんで、でーっと逃げ込んで。それはね、本当に大きな工場、「満州工作」っていう工場っていう。  そこには全部で千人、二千人ぐらいおるんですよ。まあ、これだけおりゃあもう、女や子どもの悲鳴やら、もうすごいもんさね。  ところが、不思議なことに軍人どもがおらんですよ。ああ、これはどうせ軍人だな、っていう人たちもいた。でも、逃げたか、集結しているか、どっちかしてた。  まあ、今夜はどうにかなるか、ということで、夜の一二時近かったな。暗くなってきたら、もうここは危ないから、今夜のうちに移ろう、暴動がひどいからって。暴動が起きていたんですよ。 ──周囲での暴動ってことですか? 小倉 いやいや、城壁の中に入っちゃえばいいと思ったら城壁の中でも、満人だ、日本人だってやって……。  略奪ですよね、いわば。まあ、そんなことは言えないけどね。略奪ですよ。危ないからもう、軍人の、兵隊のおるとこ行けって。  軍隊から逃げといて、また軍人といっしょにいたらまずいよ、と思ったけど。危ないですよみなさんって言ってたら、兵隊さん、連れてってって言ってくる。兵隊さんって言っちゃいけない、お兄さんって言えって言ってね。  それからみんなを連れて、歩いた歩いた。うんと歩いたですよ、無我夢中で。 ──かなりの人数で? 小倉 そう。お祭かなにか。それこそ東京であるメーデーかなんかのような……。  それで、固まってさえいりゃ大丈夫だってことで。ずーっと列になってたですよ。  それから、小学校へ、一日半かかって逃げた。暴動を避けて、群衆を避けて、なるべくこの遠回りをしてそこへ着いた。 ──一日半っていうのは、たとえば野宿する、そういう状況ですか? 小倉 いや、そんなんじゃない。もうもう、歩きっぱなし。もう何でもかんでも、引っぱってでも何しても。殺されるぞってことで。  「満州工作」から次に入ったのがアサヒ小学校か、サクラマチ小学校か。 ──奉天のアサヒ小学校か、サクラマチ小学校? 小倉 うんうん、どっちか。そこらへん記憶にない。とにかくそこへ行けって言われた。 張り切ってるんですよ。まだ疲れはないから。北満の連中だってね、一週間や半月ぐらいまではがんばりがきいたところだ。それからのちさ。疲れるのは。  行ったら今度は軍人がそっくりおるじゃないかね。ちゃーんとして。襟章をとってるだけでねえ。「露助」もおるわけだよ。 ──えっ、もう。 小倉 うん、もう。露助もおるんだよ。ほったらかしですよ。あっ、こりゃあ危ないぞ。まあそこで一晩泊まって、一日くらいいたけども、また、やられちゃうな、と。 ──そのときは何人ぐらいで動いていたんですかね? 小倉 そんなの……行き当たりばったりですよ。 ──じゃあ、知り合いといっしょにではなく、一人ですか? 小倉 ああ、もう、満鉄の服を着ちまえばね、誰がどうだかわからんですよ。同僚だかなんだかも、わからん。 ──じゃあ、同僚と逃げていたわけでもないんですね。 小倉 同僚もおったかも知らん、中には。 ──要するに、整列して来たんじゃなくて、ばらばらーっというか何というか、もう、ぐちゃぐちゃなんですね。 小倉 あーもう、ぐしゃぐしゃですよ。  もう、荷物を投げて捨てろっちゅうんだよ、この期におよんではね。みんな、それ全部捨てさしてさ。遠くへ捨てる。長い棒で引っ掛けて取りあっているうちに逃げなきゃいかんでねえ。それでもねえ、人に危害するってことはしなかったね。あれだけは立派だと思ったね、わしは。 ◆満鉄独身寮で八木秋子に助けられる 小倉 一緒に来た人の中に満鉄の人がおって、「独身寮へ行こう」って言うんですよ。奉天のあれだわね、ユキミ小学校……アサヒか……、その小学校からはす向かいの満鉄独身寮に行くのも、盲点だった。よしってね。それで付いて行った。  そこには一四、一五人いた。すると今度はロシア兵ですよ。何とかかんとか言って、何のことかわから。そう言っているうちに、二つばかりみんな殴られた。  腕にね、時計を七つか八つやってたですよ。当時さ。 ──あーっ、よく聞きますね。 小倉 欲しいなあ、と。これから、もう先にさ、中を見られんうちに自分で時計とって渡してさ、ぺちょぺちょ喋ってるうちに、腕をね、やったら、出ちゃったの。 ──えっ。 小倉 下着なんて何もないし、そんな、ただ上にこう着るだけだよ。その間に手榴弾が出ちゃった。みんな護身用にどっかに入れとるから、それが出ちゃったよ。  それでわしがいちばん先に殴られてるうちに捕まっちゃってさ。おかしいってわけで。 ──それはロシア兵に捕まった、と。 小倉 ロシア、ロシアや。  あれ、これはやったなと思って、みんなほかの連中も、早くそこを出ろっちゅうもんで。みんなに迷惑かかっちゃうから、出て行ったんですよ。  それで、ちょうどそんときにね、酒を持っていたんですね。水筒にパイチュウも入ってたし。だから、飲んで。何とかかんとか言った連中も、好きなんですよ。 ──ロシア兵? 小倉 うん。連中はね、あれ、独ソ戦で一戦交えてこっちに回ってきたんじゃないかねえ。日本人に似た、タタールっていう人種はねえ、目の色は黒いし、背は小せえし。まあ、せめても似とるから安心、のようなつもりで酒飲ましてさ。  と、急に満鉄の寮に回って来たんだね、八木秋子が。知らんもんで。 ──そのときですか。 小倉 そのときですよ。ちょぴちょぴみんな喋ってる。満軍やら、とにかくこっちは全然わからんだ。それから一杯飲んで、まあ、木曽節でも、と歌ってたら、「あっ、あんた、どこだ?」ってことで。私もねえ……「はい、私は長野県であります」「長野県のどこだ」「木曽、木曽福島町だ」って言った。ただ、懐かしいな、と思ったんだろうな、あれ。  何だか喋って、わしもあっち引っぱられ、こっち引っぱられさ。それで何だかやってるうちに、「来なさい」ってことで。「逃げなさい」っちゅう。どこへ逃げたらいいかわからんでしょ? 「逃げなさい」って、「どっから?」「もういっぺん戻って、裏の方に炊事場あるから、少し潜んでいなさい」っちゅうもんで。  それで、「安東までは汽車がある」と。弱ったことに私には一銭もないんです。二度取られてるから。そしたら八木さんが「私が出す」と。三○円だと思ったんだがね。「どちらの方」って聞いたら、「八木」ってことだけがちょっと聞こえたんでさ。はーっ、とにかく、夜分そういう中で言われて。  そうなるとね、八木さんしか頼れんからね。でももういないんですよ、あれっと思ってるうちに、どこ行っちゃったか。おそらく、次の汽車で発車して──聞いたら、はい、出ましたって。まあ、これが最後です。もう、安奉線、安東と奉天の安奉線が閉鎖だっちゅうんだよ。   〓 註 小倉正明『たにまちの風』(光陽出版社、一九九三)P.66-67によれば、八   木秋子との遭遇は「一九四六(昭和二一)年一月下旬、安東駅の構内で不審者とし   て尋問を受けた」時のこととされている。このインタビューの五年後の発行である。    「年が明けて、一九四六(昭和二一)年一月下旬、安東駅の構内で不審者として尋   問を受けた。雑踏の中でたちまち人囲いができた。正明は懸命に自分は民間人であ   って、不審な者ではないと、身振り手振りで訴えたが、一向に疑いは晴れなかった。   その時、人垣を割って婦人が一人歩みよってきた。彼女は正明の出身地を聞いた。   木曽福島だと答えると彼女は大きく目を見開き、「同郷だ」と言った。そして、八   路軍の兵士に向い、流暢な中国語で正明の釈明を述べたてた。    「木曽節を唄ってみて……」    彼女が正明にささやいた。正明はうなずき息を大きく吸って正調木曽節を唄いだし   た。〓 ──多分それは、一五日の前の日ぐらいなんですね。八木秋子は一五日の天皇の放送を聞いてるのは朝鮮でなんですね。 小倉 ああ、そうでしょう。 ──多分、場所でいえば、安東からちょっと入った…… 小倉 新義州からちょっと行った、鎮南浦かそこらへんだと思う。 ──でも、そこへ八木秋子が来たってのはまったく不思議でもなんともない。というのは、永嶋暢子が奉天に、奉天の満鉄関係にひょっとしたらいる、独身寮、満鉄の宿舎にいるかもしれないって頭があったと思うんですね。 小倉 ああ。そうだと思う。 ──そこで小倉さんを引っぱっていったとしても、それで何、どうとかっていうことじゃないんですね。 小倉 こっちはどうなるかと思ったわけだよ。で、八木さんが逃げろっちゅうから、それで逃げたんですよ。そのときには八木さんもうおらんのだよ。おそらく八木さんは、引き揚げの人みんなを連れて来たんじゃないか。 ──八木秋子が私は残りますって、平島敏夫という満鉄の支社長に挨拶に行ったら、何やってんだ、あんたは連れていく責任があるじゃないか、と言われて、子どもと婦女子を乗せた列車に乗って行った。 小倉 いやあ、それがね、八木ってことだけがやたら脳裏に残ってね。助けられたからね。三〇円もらった、と。ロシアだか、馬の骨だか知らない、五、六人にがちゃがちゃやられて、そうしてるうちにとにかく助けられて。  「あんた逃げなさい」ってちゅうて、どっか……「裏の炊事場、炊事場所へ」って。炊事場がどこだか、何もわからん。ただ憶えてるのはね、向こうの家のつくりは、裏の方にお勝手があって、石炭箱があるんですよ。どこにも石炭箱がある。石炭箱のフタの中に隠れて適当に出てくれば、いい。石炭箱に十分に入れる……大きいんだよね。あんなとこ、ペチカがみんなあるんだから。  もう静まったと思ってから出ていったら、さっき調べられた連中がみんなびっくりして、「おっ、大丈夫か」ってことで、また入って来たってわからんだよ。だれがどこだか、何も。  露助たちも、どれが本当の露助だかわけわからん。連中みんなどっか青くなってるわけだよ。だからあっちの固まりに入り、こっちの固まりに入ればわかりゃせんだよ、何もない。連中なんて、人数勘定することできんからね。点呼したって何だって、一〇人になれば勘定できないんですよ。  酒もらって飲んで喜んどるし、腕時計もらって喜んで、もっと出せって、そう言ったのかもわからんし、女の子出せって言ったかもわからんのよ。何がなんだかわからんけれども……。 ──ロシアの兵隊が酒飲んでわいわい騒いでるっていうのはわかるけども、引っぱられた人間が殺されるかもしれない、っていうときに、そこでよく「木曽のナカノリサン」をうたう気になったなあ、と思うんですが。 小倉 酒飲んで急に関東軍みたいなへんな気持ちが起きたんじゃない(笑)。 ──おかしいなあ(笑)。 小倉 正気の沙汰ではないな。 ──いま思いますか、自分で。 小倉 いや、やっぱりあれね。戦争で負けて。負けたんだから、完全に。果てしもなく続くその中で逃げるんだからね。 ──そのときはもうじゃあ、混乱もいいところなんですね。命令系統は一切ないですね。 小倉 奉天の暴動も想像できたね。混乱しちょって。だから、奉天におった日本人ら、相当悪いことをしたんだ。あれだけの反感買うってことはね。 ──ああ、なるほどねえ。 小倉 よし、それじゃもう、とにかく早く安東に出発する汽車を待とうって。大分待っとったよね。  たださえ、普通のときでも汽車の時間が二時間、半日、遅れるのは当たり前。満州のああいう混乱期には、全然わからん。  結局、安東の方へ向けて列車が出たのは、二八日頃じゃないかなあ、八月の。その間どこでどうさまよったか……。私も怪我してたし、背中へ穴が空いてるし。突かれて……。 ──どこで、どの段階で突かれたわけですか? 小倉 逃げたのが一四日。わけわからんうちにもう……あのね、最初は持ったよ武器も。 ──逆らったらやられちゃうでしょう? 小倉 ああ、やられちゃうよ。ただ、おっかなくてね。  疲れて休んでたら、「おい君、背中血い出とるぞ」って。見たら、背中に、穴空いとるんですよ。今でも傷痕がある──あれ、後ろからさされたものだな。  まあとにかく南へ、南へと行かなければ寒くて。私もシベリア、北満におったからね、これでは冬を越せない、とにかく南へ行けと。安東まで行けばたしか叔父さんがおるはずだ、と。  うかうかしてたら、へんなところにおったら、捕まるぞ、と。連れて行っちゃうから。それでお終えになるんだから。  たださえ、その隊を組んでソ連に引き渡さなんならんものを、そのうえそこから逃げた。露助に捕まれば日本人なんてことがわかったらね、殺されちゃうから。それから逃げて、朝鮮のかたのね、中へ入って……そんで、煙草くれてさ。わしはそのときは、煙草吸わなんだもんでね、みんなくれてさ。  菜っ葉服、あの厚いのを着て、汗だくだく。脱ぎたいけど脱げねえしね。それで、雑嚢、背嚢だよね。今のリックサックじゃないけど、背嚢しかないんだから、背嚢の周りに米から何から、コーリャンからもう、物資全部ぶらさげてさ。  どうやって、幾日乗ったか知らんが、それで、安東まで着いたですよ。 2 逃亡兵暮らし ◆八月二八日、平穏な安東に 小倉  安東に着いたら、今度は違う。静かなもんなんですねえー。平然として落ち着いていて。それで、八路軍ってのがいてさ。 ──八路軍が入っていたんですね、そのとき。 小倉 はい。露助もおったんだよ。  それで、あれー、落ち着いたもんだな、と思って。それから叔父さんのところを訪ねたんですよ。  汽車に乗ったのがね、六日でしょ? ──ええ。 小倉 わしら、独ソ戦に対応するために出て、野戦に出たのが、八月三日かそこらだで。三日の日にはハルピンが爆撃されて、機銃掃射を受けてベーッと倒された。  わしのとこは一三人だか一一人で、わしが小隊長。三人で一組なんですよ、機関員というのは。はい、小倉君。一一中隊の機関員は、全部で二本か三本列車を出すことになった、と。どうもうちの本隊がそれに乗るらしい、と。わしの列車は後から行くということになったんですよ。そりゃおかしい、ってことでペーッと散った。三日の日に出たっきり、六日の日に逃げることになって。  叔父さんとこに着いたら、みんなびっくりした。もう、幾日も顔も洗っておらんし、血もついとる。いやー、よく来た、無事だったってわけで。  叔父さんは、よーく来た、どうやって来た? いやー、噂には聞いてたけど奉天の暴動はすごいな、ってね。そうなんだ。とにかくお話にならん、ちゅうわけで。  まあ、お茶を飲め、風呂へ入れ、髭も剃ったと。泊まれ。やれやれ落ち着いた、と。そのとき、いや、実は南安東に一個師団おると。一個師団が安東の者を集結してずっと北上して、牡丹江に集結している軍隊といっしょになってシベリアへ行くんだって言う。いやあ、それは逃げた方がいいぞって。わしは、ずうずうしくもさ、その南安東というとこに行ってみようかって。  ちょうどあの時分にはね、大根餅つくって売りに行かないかって言うんですよ。仕事はないから、大根餅をつくって、あの……ターコーバメイ。って、タイゴっていうのは大根まんじゅうのことターコーって言ったんだったかなあ。大根餅を売るって、まあ、変装して行ったら、みんなのんびりと相撲大会やっとるじゃないか(笑)。露助が相手で。露助の将校と。  おい、どうも、日本が負けたって。バカこくな。いや、本当だよ。おれ逃げて来たんだ。どっから来た? ハルピンから逃げて来た。君たちはどこから? 佳木斯(ジャムス)からこっちへ来たんだけど、と。 ──どこですか? 小倉 南安東だよ。 ──いや、その人たちはどこから来たって言ったんですか、。 小倉 連中は牡丹江から。佳木斯(ジャムス)から南下してここまで来たって言う。おれが来る前か、と聞いたら、君よりずっと前に来とるって言うんだよ。  おかしな連中だなこの連中、と思っているうちに、三浦(朝弘)っていう相撲取りのでかいやつがおってさ。話して、鉄道のことはまかしとけ、なんて啖呵きったのがきっかけだ。おい、逃亡か? じゃ逃げちゃえ、おれんとこ来いって言ったら、君は本当か、本物かって(笑)。おれ鉄道隊なんだよ、鉄道隊の小隊長なんだよって言ったら、あっそうか、大丈夫だな。  じゃあ、ここにおるから。おれ、その家を教えたら、夜来るじゃないかね、のこのこと。やい、大丈夫かって。そうか、人数は? 何人おる? って言ったら、七人だって。  後で話を聞いてみたら、その中には満鉄のね、何年か知らんが、浪速商業の投手だったという、クロダって大将がいたわ。それから北海道のスキーのジャンプの選手でサワイって大将がいた。ニシムラという大将もおった。有名だっちゅうて、みんなおおそうかなと思っただけの話で。  なにしろ七人か八人いっしょに逃げてきた。とにかく変装しなきゃだめだ。みんな変装してさ。 ◆豆腐売りを始める 小倉 満州のその時分は、どこも雇ってくれんでね。結局、盗んで食うか、拾って食うか、どっちかですよ。だから、物売りやるったって買ってくれる人なんかいないんだから。日本人ばっか、引き揚げてくるような人だからね。  ただ、外地ではじめて、同胞っていうやつがね、やっぱり親しくて、同胞相哀れむみたいな……お互いに分けて食うと。その陰で、なにしろ乞食みたいな泥棒みたいな、何ともいえない──まあ、ある意味では匪賊のような感じになるし。  そうやって一?二ヶ月過ごした。でも、叔父さんの家は四人だか五人だかの家族でしょう? そんなおったら、とても食べていけるようなもんじゃない。  そんなような状態で、安東市花園街二─一九かな──というところ、そこの満鉄の社員宅舎を借り切って、そこで逃亡兵が生活することになった。  八路軍は毎日のように日本人狩りをしている。満鉄の社員宅に日本人がおることが不思議なんだからね。だからわしも開拓団、少年義勇軍だと。満蒙開拓青少年義勇軍で来たんだ、というふれこみでおったもんですよ。  だから、いつまでも逃亡兵じゃいかん。このままじゃいかんから、すぐ近所に豆腐屋さんが、豆腐をつくってる満人がいたんですよ。満人の豆腐は固くて、包丁で切って板にのして売るんだけれども、日本人の豆腐をつくってくれって。それを売るからって。  花園街、二六〇戸あったんですね。そこんところで、ラッパ吹いて、わしと三浦とで売り始めたんですよ。ほかの連中も、肉屋やったりね。みんな散った。中にはね、用心棒に雇われた人もあった。 ◆銃殺の危機 小倉 それで、昭和二〇年の暮れに、変なやつが飛び込んで来たんですよ、山本いう大将が。これ、特務機関なんですよ。  おい、日本は全部参っちゃった、と。とにかくこれからは、通化方面におる特務機関と警察が武装蜂起するから、君たちも起ち上がってくれ。第二のふるさとは満州だ。ここに第二のふるさとをつくるんだから起ち上がれ、と。  起ち上がってってどうするんだ? って言ったら、武器、兵器は全部ある、と。示唆してくれた。  それで安東の鎮江山っていう、いまは公園になってますかね、鎮江山に狼煙があがるから、そのふもとまで武器を持って集まれ、っちゅうわけだよ。それが正月。 ──昭和二一年の正月ですね。 小倉 ええ、そう、二一年。そのときに、本気で信じて、隠してあった武器を持って集まったんですけどね。 ──みんなですか? 小倉 みんなです。  ところがその前に、安東事件が起きた(九月一七日)。鎮江山の安東神社が爆破されたんですよね。安東事件については、信毎(「信濃毎日新聞」社)を訪ねてもらうと詳細がわかると思う。その後、警戒されているときに、こっちはノコノコ武装蜂起しようとした。もうちっとも上がらないわけさ、その狼煙が。おかしいぞ、おかしいぞ……。 ──どれぐらい集まったですか、そのとき。 小倉 わしら一四人さね(笑)。南安東には一個師団おるんだから。まだ一個師団引き揚げていかないでおるんだからね、向こうに。全部集まる、外からだいたい三千人が南下して安東めがけてくるっちゅうんだからね。これは本当だと思ったですよ。うそじゃない。  おかしいぞって言ってたら、八路軍がどぅーって上がって来るじゃないかねえ。山狩りみたいに。それで逃げた。武器をそのまま持って家へ逃げちゃったんですよ(笑)。  難なく逃れて、やれやれと思って相変わらず豆腐を売っていた、一月の一九日か、いや一月の一四、一五日か。ほっとした気分で一杯飲んでわしは出てったよ、外へ。そうしたら、「誰か?」って。  そんなときに限って軍服着とったんだなあ。ないんだから、軍服しか。どうせなら菜っ葉服でも着てればいいものを、白い、鉄道隊の白い服着ちゃったんだよ。作業服みたいなやつを。そうしたら、ヤーピーだ、兵隊だって。  わしは捕まって、殺しちまえって蹴られたり、殴られたりして、連中にひっぱられて行ったな。とうとうまあ、しょうがねえって、いう話。  でも、これはいかんと思った。天井には武器がいっぱい置いてあるでしょう。そりゃあもう、まいっちゃいますよ。みんな銃殺ですよ。わしの叔父さん夫婦もいるでしょ? 子どもも四人おる。それから兵隊が七人でもって、こう近所に分散しとるでしょう。   そして夕方の五時頃かな。安東の花園街って、安東中学のところを横切って、独立守備隊のところを横切って行くのに、歩いて一時間ぐらいかかるんですよ。わしはわざとこっちだ、と言ったんですよ。  みんなは小倉が捕まったってわけで、びーくびくで。いちばんたまらんのはね、うちの中村っていう、わしの叔父さん、わしの父親の弟夫婦ですよ。おれが殺されたとなったら内地へ引き揚げてこっちの家に面子がたたんから、必死ですよ。みんなも一生懸命になって、あっちへ飛び、こっちへ飛びさ。何か日本人のそういう手づるがないかって飛んで歩いて。  だけどわし、いよいよ銃殺ってことになって。それが向こうでもどうも解せねえんだよな。満州義勇軍だって言ったら、見ればたしかに若い。考えてみれば一八か一九になるよね。繰り上げの検査に行ったもんだから。  安東中学の地下室がブタ箱になっとったんだよ。で、いっぱい露助みたいなね、スターリンに似たような顔のやつもおれば、おれみたいに日本人もおる。それは半日くらい続いたと思う。  もうおれの方はどうせ死ぬつもりだったしね。そうしたら、もう調べん、出ろって。  叔母さんが自分の子ども、自分のうちの子だってことにしたんじゃないかな。福島県の須賀川の出身だけどね、そりゃあ、いい人ですよ。  三浦もおってさ。おお、よかった、よかった、って。殺されるところだった。「何しとった?」「細かいことを喋っとる余裕はない」って、夜だったな家に着いたのは。  おれが捕まったと同時にみんなで手分けした、と。それで銃から軽機関銃から全部、水道のマンホールのフタを開けて落したんだってさ。えらかったろう、確かに。それでまあ半日かかったっちゅうわけ。  おれがあさっての方に連れったからよかった。全然あさっての方へ連れてって、死んだと思ったら、いやあ、と出てきた。それで連中も、おれを図太い野郎だと思ったんだ。  それで二回死にそうになったわけだね。八木さんに助けられて、それから安東事件でひっかかった。山本って大将、特務機関なんだよ、これに、いいように引っかかった。 ◆八路軍へ入る 小倉 それからはマークされちゃってね。「おるか?」って。定期的に来るんですよ。 ──それは八路軍だったわけですか。 小倉 八路軍。八路軍の中に日本人民解放軍ってやつがあるんですよ。日本人を解放するね──野坂参三たちがいて、日本人同士でつくっていて。解放軍で、抗日戦線を援助するということと、やはり民主主義をさせようとね。そのうちに、それ入らんかっちゅうんで、まあ、ええや、入ってもいい。ということになって。 小倉 君は特技は何だ? っていうもんで、わしは機関士だって言ったら、やっ、テーホ(?注鉄道のことか)だっていう。今度は八路軍に引っぱられて、また満鉄の仕事をずーっと。  最初のときは、安東から船に乗って、水豊ダムの機械を全部撤収して持って来るようなんですよ。いま考えるに、ソ連と中国との諍いがあそこらへんからだな、と思うけどね、 ──ロシアは全部、ねじ一本まで持って帰ったっていう。 小倉 そう。持って行くのを手伝わせるんですよ。バールとコロでもって、ジャンクへね。一七トンか二〇トンぐらいの船に全部、みんな載せるんですよねえ。それはまあ適当にやって、その翌年の五月から七月頃になるかな。全部撤収。  どこへ持って行くか知らないけど、全部船に載せるんですよ。船に載せるのはおれたちの仕事。神楽桟とコロを使ってね。工兵隊だからお手のもんですよ、自分はコロ使ったりね。あの時分には人海戦術だから。  次は鉄道の敷設へ回れっちゅうもんで、その二一年の九月頃かな。安東と奉天の途中……途中かな? いま、地図見んと忘れとるね。翰林ってとこまで行く、それは六〇〇キロぐらいだったかな、それを敷設に行った。敷設屋さんはお手のものだったから、みんなやってほめられて。  そうしとるうちにね、パンパンって音がする。何だって言ったら鉄砲の撃ち合いだ。国民党地方軍だって。それからは八路の地方軍。  おれ、こんなところで死ぬなんて、弾にあたって死ぬなんてこと馬鹿みたいだと思っておったけども、本当に弾があたる。それでも、きれいにね、暗くなると絶対撃ち合いしない。  八路軍と国民党との戦争は本当の戦争じゃないんだよ。鉄砲は威嚇してパンパン撃ち合って、景気ようやるけど。自分の支持者を集めるだけなの。だから夜はお互いにやめよう。雨降ったときもやめよう、と。  そのうちにまた安東に帰って来た。安東に帰って来たら叔父さんたちはもう引き揚げるという。  まあ、わしは名簿がないんですよ。 ──帰れない……。 小倉 それでしょうがなくてさ、奉天まで行って、奉天から今度は中央軍の蒋介石の軍隊にお世話になって、コロ島まわりで。  その間全部、三浦、あの相撲の玉乃海といっしょだったんだ、この前死んだね。その間にいろいろ……。大将は、小倉って男は、こいつは度胸、肝っ玉が座ってるし、なんと敏捷なやつだと思ったんじゃない? ◆三浦朝弘(玉乃海)との敗走 ──三浦さん、玉乃海さんとは安東で会って、そこからですね。豆腐を売ったり、八路軍に入ったり、いろいろやってたでしょ? そのときも三浦さんはいっしょなんですか? 小倉 いっしょ。 ──いっしょなんですか。 小倉 いっしょだけどもね、大将は図体、体がでかくてね、ぶきっちょなんだよ(笑)。力仕事しかできけないからね。わしは鉄道、力は大将が専門だから。 ──じゃあ、その玉乃海さんといっしょに動いてたのは、小倉さんだけ? ほかにも何人かいたんですか? 小倉 いや、いない。だから、二人。しまいには二人きりになっちゃったんだよ。そりゃあ、弥次喜多さ(笑)。豆腐だって、ラッパ吹いてさ、ぷーっぷーっ、って。それで買ってもらったわけだよ。でも、大将は最初の七月はやったんだけど、あとは行かんのよ。家で飯の支度しとるわけや。酒買って来て飲んで(笑)。 ──じゃあ、小倉さんに食わしてもらったようなもんだ。 小倉 とにかくね、向こうではさ、満州ゴロっていうか猛者っていうか、そういう連中、柔道の強いやつから空手のできるやつから、とにかく。そうかと思うと、サイコロ使えばね日本一なんていう、そりゃ世界一の詐欺師みたいなやつ(笑)。そういうのがウヨウヨおったんだから。  それでわしもついて行ったんだよね、知らんもんで。三浦は力に自信があるんで、おい、用心棒やるか、って。いやこれは、なんちゅうかなあ、あんな無茶なことして。あの時分、腕力だったら強かったからね。八人ぐらいかかったって、勝ったよね、大将は。そういう大将だったから。  強盗も荒れた、とにかく荒れた。暴動なんちゅうことでも凄い、相当なもんだなあ。お祭って、お祭の通りだなあ。いや、人のにぎやかさは。しかし、殺気だってるでねえ。 ──ちょっとしたことで、鉄砲もってる人間なんか。 小倉 みんなもってるんだから。 ──カッとしたらそのまま。 小倉 拳銃はね、こうやってポケットに入れといてこう撃てば音しないんだよ。近づけて、グッとやれば。  満ゴロ、満州ゴロなんていうのは本当にね、ビールをボーンと叩きつけて、底抜けたやつで顔突き刺されるでね。それが当たり前なんだもの。帰って来てから「太陽の季節」って映画が、石原裕次郎がやったよな。 ──ええ。 小倉 あの通りだったな。そう思って見たんだ、わしは。 ──帰っても、もうしょうがないって人がずいぶんいたでしょうね。日本も駄目だろう。だったら、どうせこちらへ来たんだから、ここで骨埋めようって人が。 小倉 負けたから、わしは日本全滅になっとると思っとったわ。それじゃあしょうがないよな。のんびりしとることはのんびりしとるもんだよね。 3 帰郷 ◆木曽福島で機関士に戻る 小倉 帰ってきた当時、有名だったですよ、わしは。  第二乙でしょ? 甲種合格、乙種、その次だよ、第二乙っていうのは。行く前には静かな男でさ、体は細いし、色白いし、ひょろひょろってして、腕力はない。気管が悪くて、肋膜じゃないかといわれていたおれが、満州行って飛んで歩いてるうちに性格も変わり、体も変わっちゃった。帰って来たとき、みんなびっくりしたもん。あれが小倉か? ──顔も変わった、って言われなかったですか?(笑) 小倉 あのときは確かにすごい……刑事みたいだったね(笑)。 ──そうでしょうね。 小倉 しかしえらいもんだったな、共産党ってのは。八路軍へ入ったら、連中はね、毛布、そいつに寝て、大きな鍋──日本でいう豆なんかを煮る大きな鍋を一つ持ってきよるんですね。それと箸と茶碗。茶碗を出して、飯を食べる。中国はみんな一つの鍋の中で全部できる国、いいとこなんだよ。  わしが水汲みにバケツ一つ借りて来たんですよ。でも、どこへ返していいかわからんようになっちゃった。そうしたら怒られてさ。憶えとかにゃいかんって。いやあ、返しに行きようがないんだよ。 ──八路軍のあれ──「三大紀律六項注意」にひっかかったわけですね。民衆のものはサツマイモ一個でも盗るなって。 小倉 それでわしは、三日も四日もかかって探して返した。そしたらほめられた。  日本の女の子、絶対女子を犯したらいかんっていう、ああいう八路軍ね。それでおれ、感銘しちゃったんだよ。よし、共産党しかない、と。  あの当時、背中に銃を抱えて、列になって撃つ。ぺちゃぺちゃ喋りながら。それは悠長なもんだよ、中国人ってものは。そういう中で、なるほどなあ……と。 それで帰ってきてね、わし、鉄道の機関士に復職して、木曽福島機関区の分会の執行委員、青年部長をやり、そして長野の、昭和二四年の第三〇回メーデーの実行委員長になった。民主主義というやつは猫も杓子も民主主義さ。  電気産業、電産から日教組から始って全部、まだ分裂した時分だから、そりゃ昔の軍隊がそのままひっくり返ったようなもんさね(笑)。そのとき、実行委員長が私だから講師に八木秋子さんを頼みたいと思って訪ねて行ったんですよ。 ──あーっ。 小倉 八木秋子さん。どこにおったか。長井の橋さにおると言うもんだから訪ねたら、「いや。私はね、アナーキスト。私とは相容れないものがあるからだめです」。ああ八木さんは違うんだな、ということがそれで初めてわかったの、そのとき。 ──戦後会いに行ったとき、奉天の満鉄の話は小倉さん、されたんですか。 小倉 えっ、誰に? ──八木さんに。 小倉 しません。 ──とすると、八木さんには果たして、小倉さんを助けたという記憶があったかどうか。たくさんそういう人を助けた、ひょっとしたらやっている。 小倉 ああ、あちこちやったよ。そうだしね、あの人はあんときにはこいつは女か、と思うくらいだったね。  とにかくね、あの戦後のちょっとした動乱はね、人を変えてしまった。目つきは変わってくるしね。そりゃあ、凄かったですよ。男まさりだったことは確かだね、あの当時。  私は町の議員になったり、県評の方の副議長なったり、それから共産党に入った。日本の共産党の、ソ連の方をとるとか中国をとるとか──いや、日本は日本の共産党をつくらなきゃだめだ、独自の方に行かなきゃってつい言ったら、おれは中国派だと言われてさ(笑)。一時だいぶ言われて、荒れてたときもあったですよ。 ──そうでしょうね。 ◆満州で見たもの ──小倉さんは何年生まれですか? 小倉 大正一四年。 ──大正一四年ですか。そうすると、今六四歳。 小倉 だいたいそう。 ──と、向こう、満州の方に行ったのは何年頃になるわけですか? 小倉 一九年。 ──えっ、一九年。 小倉 一九年ですよ。わざわざ負けに行ったようなもんですよ。だからね、本当にあれさ──考えてみれば、可哀想なもんさ。  満州ってもんね、広いんですよ。普通の動物のように、歩くときはずーっと鉄道の線路の沿線ばっかり歩く。人も歩けば、狼も歩けば、野良も歩く。そいつらに出会ってるんですよ。  そりゃあ本当に、みんなバラバラだね。靴があったり、ズボンの切れっぱしがあったりして。狼たちも、どこの野良犬かなにかわからないあれも食いつくんだよね、夢中で。狙われたら最後だから。  ただ、終戦が夏だったでよかった。冬だったら全滅ですよ。一人として生き残りようがないで。だから、わしがテレビなんかで孤児を見ると、あんとき逃げ遅れた連中だなあって、感無量さね。大勢だった。それこそ大勢だった。 ──先ほど言われた、荷物をこう捨ててですね…… 小倉 なるべく遠くに投げるんだよね。 ──その中には、子どもが四人も五人もいたら、子どもを置いてけと言った人はたくさんいただろうし、病気になった子どもをそのまま連れて行っても死んでしまう…… 小倉 だからね、人間ちゅうものなんさ、いいうちはずいぶん面倒みるよ。そのうち、離すわけでもないが、手を離してしまうんだな。背中に子どもがおることも忘れて。我に返ったときに初めて、人を振り返るだけの余裕があるんだな。それだけしかない。  あんときにわしはそう思ったよ。いや、もうこれからは人間の生き方を変える。もう、だまされんぞ、と。人にはだまされん。 ──修羅場の中で見えたものもあるわけですよね。不幸だったけどそのぶん見えた。お話を聞いて、それを伝えていきたいということがあるんです。自分が生まれたのは昭和二四年で、ちょうど、小倉さんが国鉄を首になったその時期です。 小倉 ああそうだ。 ──だから、戦後の世代。ベビーブームの人間ですけれども、戦前のことは知らない。そうかといって、少し、かすかに何かわかって、知ってる。やっぱり戦争ってのがテーマだと思います。その戦争のことを、勝った負けた、苦しかった、っていうんじゃなくて、その中でやっぱりこう、伝えなきゃいけないものは伝えなきゃいかん。そう思っているんです。その中から何か見えたものがあるんじゃないか。人と人とのつながりっていうんですか。そこだけですね。 小倉 時流にうまく乗って、時流にあわせて生活していけるならいいけども、八木さんのようにね、逆。出るとこ出るとこ裏目に出て押し流されていく、という人もいるでね。やはり、そういう人もいるんだという見方をしなきゃね。 ──ええ。 小倉 たまたまいま幸せなのおるけど、おれの友だちも自殺したり、成功しなくて、やれやれ年金もらえてよかった、というぐらいの、わずかそれだけの楽しみしかなかった人もいるんだよ、実際はね。 ──八木さんなんか、結局一つの生き方なんだ、というふうに思ったんですけども。 小倉 八木さんはね、あなたに出会って幸せですよ。あれだけの本、女としての自分の生き様をね、まとめてもらって世に出してもらったっていうことは、それは幸せですよ。 ──会ったときはまったく裸、要するにただ会っただけなんです、アパートで。何をやった人かというのもほとんど知らない。彼女が老人ホームに一人で入ると知って、いやなんだけど、もう入っちゃったわけです。じゃあ八木さん──この人は何か持ってると思いましたからね。何か、書きませんか、話しましょうと、となったんですよ。  それで一部百円の通信を送り始めたら、購読者が増え、本を出したら「朝日新聞」に載った。それで図書館へ行ったり、いろんなところへ行って調べていくと、小川未明の本に出てきたり、いろんなところで八木秋子が活躍したっていうのが出てくるんですよ。これはとんでもない人だな、と思って。 ◆気脈を通じた玉乃海とのつき合い ──お父さんも何て言うんですか、相撲が、巡業がやって来ると、いろいろされてたわけでしょ? 小倉 その時分木曽谷というとこはね、戦前は旦那衆ってのがあって勢力張ってたけども、むしろその旦那衆からもれた、土建屋だとかあの、石屋や鳶職やら、大工やら。いわばちょっとヤクザっぽいような連中がみんなグルになって、そうしたのが相撲の巡業をやってたんですよ。たいがい、来るとね。 ──お父さんの代からそういう巡業をされていたのなら、玉乃海、三浦さんですね、三浦さんとはそのときから知ってたわけですね? 小倉 いや。互いには知らんさ。本人はここ来たこと知っとって、いや寒いとこに行った、あんときいた、あっそうか、ってことで知ったんでさ。 ──そうする、最初はもう、まったくの裸同士っていうか。 小倉 そう、裸同士。 ──相手が誰だかわからないけども。 小倉 満州で逃げて歩いとるときは、そんな大した男もおらんだろう。殺されるぞ。よし、逃げるぞってことから始まって、これはおもしろいやつだって。 ──それが初めてなんですね。 小倉 正規に知り合ったのが。 ──その時目をつけたって、変な言い方ですけども、こいつは、と思ってこう、何人もいたわけじゃないんでしょ? 小倉 いや、そりゃ目立ったさ、ありゃあ。あれほど酒ぐせ悪くてさ(笑)。それは目についたですよ。 ──本当に急になくなりましたね。 小倉 おれとの約束は、大阪と名古屋と東京と福岡、四場所で定年になるから、四場所お付き合いしろ、と。大阪へも行って、名古屋行って、東京はちょうど議会だかで行けなくて、それで死んじゃったんですよ。  だからこのビデオは初めからそのつもりで撮ったんだね。後から見るとそういう具合に感じられる。意識して、〓向坂 向坂松彦? さんがね、名古屋のときに、何か一つのドラマにしたいような人生だ、と。そう言ったんですよ。そういうつもりでつくり始めて、ここで幕切れにしたんだな、と思って。 ──亡くなったことは残念なことだけども、残ったっていうのは何か…… 小倉 あのね、相撲はね、自分の生涯を懸けての一つの生き様がそのまま出てくるんだよ、記録に。相撲というのは普通のスポーツと違って特に歴史を大事にするという意味で、それができたんじゃない?  ──そうですねえ、他のスポーツとは違いますね、確かにね。 小倉 私はやっぱりそれを感じるし、まあ心技体というね。 ──とにかく一人で。相手も一人だし。一人でやるしかないですからね。 小倉 そうだ。しかも、それが生活のすべてだよね。 ──しかも一瞬で決まる。いやあ、最初、この玉乃海って人物、新聞で読んで不思議だな、と思ってました。 小倉 しかもね、憲兵殴ってるよね。 ──そうですね。 小倉 これ、はっきり出ますよ(笑)。  ちょうどね、大正、明治の武骨者というか、大正は短いけどね、やっぱりそういう一つの一面も、大正時代にはあっていいんじゃないかっていうね。  玉乃海は二五年に相撲に戻る。私は国鉄を辞めると同時に、もう一人じゃやっていけんから結婚して、この給食を、まあ、ものがなかったからパン屋を始めたで。  だから、二人とも同じ年に出発したんだ。それで二九年に再会した。やあやあ生きとったか、っちゅうことで始まって、それからお互い苦しいところをずーっときて、今日に続いてきた。  だから、思想的にいえば、やはり中国の八路軍の影響で、ということは確かなんですよ。その中で、ヤクザっぽい侠気気質が二人の中で通って。誰が何と言っても違うんだ、と。だから時によっては組織違反もしてみたりして(笑)。 ──ええ。そうでしょうね(笑)。 小倉 時にはね、牡丹もね、菰かぶって冬越すんだで。ざま悪くても、強く生きようじゃないか、という道筋。わしの持論です。牡丹になったら、だから、ちょっとやくざっぽいようだけれども、それが私、生き方です。 ◆パシナの機関士として 小倉 びっくりしたのは、「パシナ」が出てるじゃない? ──ええ、そうです。 小倉 自分の運転した列車だ。 ──えっ、パシナを運転されていたんですか? 小倉 そう。八木秋子を好きな人が、パシナも好き。だからわしはパシナの写真か何かあげたくて、待っとっただ(笑)。 ──満州の象徴的なものが、もうパシナしかない、と。  八木さんと永嶋暢子さんなんですけどね。それまで解放運動をやっていた人間が満州へ行くわけでしょう? しかも二人とも別に転向したわけじゃない。  先ほど伺ったことですけど、そういう人間が、修羅場の中で、どういうことをやるか。そこだけしか人間は信用できないぞ、と。そういう場所で、きちんとやれる人間は本当に信用できるぞというふうに思って。小倉さんから今日お話を聞いても、やっぱりその通り、八木秋子はそうだし、永嶋暢子はそうだったろうし。  それから、パシナってのはもう一つ、列車のイメージ、鉄道のイメージも重なって、何となくこう。人と人が、それぞれ独立した存在でいて、こうガッチャンってね──くっついて、引っぱる人間が誰かいなきゃいけないし。  しかし、パシナを運転されていた人に会えるとは思わなかったです。 小倉 いや、わしはね、あんたが鉄道関係の人かな、と思った(笑)。ところがね、「パシナ」を見ていてもなかなか運転の関係は出てこないんですよ(笑)。おかしいなあ、と思って。  しかしよくつけたと思って感心してさ。おれ、ほかの名前だったらあんたに見向きもしなかったよ(笑)。実は心配しただ。おたくと行き会うの。待てよ、あんまり了見の狭い人で、後でどうかなったり、新左翼というやつに利用されたらかなわんぞ。幅の広い人だったらいいと(笑)。  ところが、真面目そうな人だし、まだ若い。私もそう先は長くない。やはり、老いて来ると、あとに伝えていかなきゃならんから。実際の真実をね。「パシナ」についてだけでも本当のことを知っておいてもらいたいと思ったもんでね。じゃあ一ぺんは行き会ってやろう、と。そういうことで、おれ電話したんだ ? ──ありがとうございます。 小倉 いやあそりゃあねえ、パシナにしてもパシクリにしても機関車そのものはね、みんな端で見るほどいいもんじゃないんですよ。あん中へ入れば、地獄ですよ。釜炊いてね、夢中になって、こう汗だくだくになって。真っ白い火の中で何千度でお湯湧かして、そのお湯で走るんだで。  お湯を沸かして走るという、まったく幼稚な話だけども、しかしそれだって何とも言われんものがあるんだね。東海道で八〇キロ出すのが精一杯のときに、一二〇キロ出すんだよね、アジア号は。パシナって一つの、時代の人の夢だったからね。  機関車なんてものは、まったく生きてる。撫順炭なんて入れてくと本当にね、はーっ、はっ、と。生きとるっちゅう。えらくなってくると、はーっはーっていうでねえ。滑るしね。あれは、砂まかなならんでね。  それがさ、山、谷間の勾配に行くとね、パーン、パーンパンパンパン……後ろで誰かブレーキでもかけてるのかな、ぐらいになりますよ。北満なんか行ったらもう、登るときは登るでね。だから下るとき、ブレーキばかり一時間もかけたら、タイヤは真っ赤になるから途中で冷やしていかなきゃいかん。  デーッ、釜が千五百度ぐらいになったときにはね、機関車そのもの溶けてしまいやせんか、と思うね。  普通と違うんだよね、機関車ってものは。体全体にグーン、グーンと来るでね。何ともいわれんねえ。ちっと、ボコボコしてくるまわりの雰囲気といいね、ビーッとくるでね。耳から。それが若い頃は実感でねえ。ちょうど海の中へドゥエーって飛び込むのと同じようにね。  一時はね、神経衰弱になるんですよ。ビーッとブレーキかけて、八〇キロから、アジア号なら一二〇キロから、あんなとこに止まるかな、本当にこれ止まるかな、と思うとね、頭おかしくなるの。それまで憶えるにはね、そんなものは五年や六年かかるわ。雨降り三本、雪五本てね。雨降ったときはね、レールが三本伸びるでね。ねっ? ──要するにブレーキ…… 小倉 今日は普通よりも滑走経路伸びるぞ、と。 ──雨降り三本…… 小倉 雪五本。これはまあ、常識だと。動輪の回転数は決まっとるでね。何回転すればあそこに行くか。早く回るか、遅く回るかだけの話だで。  だからその距離を動輪のマルで割る。だから、全部機関士というものはどこどこいくら、どこどこいくら、頭の中に入ってるですよ。その虎の巻が全部書いてある。赤い字で。 ──はじめてのところってのは困る? 小倉 そんなことはない。それが満州なんだよ。そのくらい満州というところは広いでね。満州、計算しきれんのよ、長過ぎちゃって。大雑把で、ここらへんだいたい何分ぐらいで行ったらよかろうちゅうぐらいのとこで。 ──地図だって大雑把でしょうしね。 小倉 一時間二時間どころか半日違うぞ、半日(笑)。 ──じゃあ、しょうがないですね(笑)。 小倉 しょうがない。 ──遅れても。 小倉 あんなもの、当然ですよ。今ね、時間表って見るとね、日本の国鉄は一五秒単位。三〇秒遅れると事故報告せんなるから。それぐらいに厳しく考えてたから。 ──満州行ってパシナを動かしたってのは、結局一年半、ぐらいですよね? 小倉 一年半。また、八路に入ってからもあるよ。 ──うん。ああ、ああ。ええ。 小倉 それはね、毎日様子が変わり、お客も変わり、場所も変わり、止まる停車位置も違う。  満州はわからんに、あそこは(笑)。満州はわからん。青年期あそこに行って……とにかく、満州は夕日が強烈だね。 ──満州へ、満州へっていう、赤い夕日を目指していった。 小倉 私たちの子どもの頃はね、満州っていうたら、まあ、風雲急を告げる満州へという、男のロマンになってたんですよ。昔の連中にはそれこそ夢だったよね。満州行って、匪賊、馬賊──わし、馬には乗れんけどね、とにかくあそこで無頼をすることがね、夢だったから。  ましてや満鉄のアジア号か何かを運転できるという、それはおもしろくてしょうがないやね。夢を地でいったんだから。  満州なんていうのはね、春と夏の間が短いんですよ。一週間ぐらいしかないんじゃないかなあ。春だなあ、と思ったら、夏になっちゃう。夏になると、カボチャや胡瓜が、真桑ウリが音たててなるような、本当に音が伝わってくるような気がした。すると、今度はすぐ冬になるでね。  そん中を死にものぐるいで盗んで食わんならん、生かんならん。南へ南へと帰ってくるんだから。命がけだったから、人との出会い、ふれあいが強烈に今でもね……今でも夢に見るでね。ギューッと──力入れるところを。何してるとこかっていうと、汽車が止まるところ。あれはなおらんで。                         〓聞き手 相京範昭       〓日時1988年5月28日 〓場所長野県木曽郡上松町小倉正明宅